東急バス株式会社(とうきゅうバス)は、東京都城南地域・川崎市・横浜市北部を中心にバスを運行する東急グループの会社である。東京急行電鉄のバス部門を分社化することにより1991年5月に設立され、同年10月より営業を開始した。本社は目黒区東山三丁目にある。
路線バス事業としては、一般路線バスのほか、深夜急行バス、空港直通バスなどを運行している。都市間高速路線(長距離夜行高速バス)に参入していた時期もあったが、収支状況の悪化により1998年までに全線から撤退した。貸切バス事業は1994年より順次縮小を進め、小規模なものとなっている。
他社に先立ってバスナビゲーションシステムを導入したり、ハイグレード中型車を使用したデマンドバス「東急コーチ」を運行するなど、旅客サービスの向上に積極的なことでも知られる。このほか、不動産などの部門で付帯事業を営む。
関東の大手私鉄系バス会社で唯一、全ての路線が前乗り運賃先払いで、整理券方式の路線が無い。

沿革
東京急行電鉄時代とその前身事業者のバス事業を含めた沿革について。東京急行電鉄は1922年、目黒蒲田電鉄として設立された。
目黒蒲田電鉄のバス事業
目黒蒲田電鉄がバス事業を開始したのは1929年のことであり、最初の路線は同年6月25日に開通した大井町線である。大井町線は、大井町駅を起点に西へ向かう路線であるが、当初の終点については荏原町車庫前と東洗足の2つの説がある。これは東急が発行した2つの社史においても食い違っているため、どちらが正しいのかの判断が困難であるが、いずれにしても鉄道の大井町線に並行する道路に路線を設けることで、その営業を防衛する意味合いを持つ路線であったことは間違いない。
目黒蒲田電鉄はその後、小山・自由ヶ丘・等々力・下丸子などに路線を拡張したのち、1933年に子会社・目蒲乗合を設立し、バス事業を同社に譲渡して分社化した。この間、1932年に大森乗合自動車を傘下におさめ開業させているが、同社もまもなく目蒲乗合が吸収合併した。
池上電気鉄道および周辺事業者の合併・買収
目蒲乗合と池上電気鉄道のバス路線
1934年、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道を合併し、同社のバス事業を引き継いだ。池上電気鉄道のバスは1927年に中原街道の五反田駅 -
中延間で始まり、その後両端部を丸子渡および品川駅まで延長、さらにいくつかの支線を開通した。1930年には池上通りの大森 -
池上間を新たに開業し、1932年に池上 -
雪ヶ谷間を開通して中原街道と池上通りの連絡をつけた。これらの路線を、池上・中延の2車庫にて運営していた。
目黒蒲田電鉄は旧・池上電気鉄道のバスを継承後、直営で経営していたが、競合区間のある旧・池上路線と目蒲乗合を別会社で経営することは不合理であったため、3年後の1937年に目蒲乗合の路線を目黒蒲田電鉄に戻し、バス事業を直営に統合した。
その後、目黒蒲田電鉄は、玉川電気鉄道傘下にあった2つのバス事業者を1937年に合併する。すなわち、目黒通り周辺に路線を持つ目黒自動車運輸、田町・芝浦周辺を営業区域とする芝浦乗合自動車である。また、1939年には、大井周辺に路線を有する城南乗合自動車を傘下におさめている。
旧・東京横浜電鉄のバス事業
旧・東京横浜電鉄も目黒蒲田電鉄と同じく、1929年にバス事業を開始した。最初の路線は東神奈川 - 六角橋 - 綱島間、東神奈川 -
六角橋 -
川和間の系統であるが、これらは神奈川自動車より譲受したもので、前者は現在の東横線に並行する旧・綱島街道を通るものであった。しかし、営業成績は芳しくなく、わずか3ヶ月足らずで子会社・東横タクシーを設立し、事業を同社に譲渡してしまっている。
1936年頃の東横乗合路線
また都内では、大橋 -
大鳥神社前間の免許を得ていたが、これも傘下の東横乗合に譲渡したうえで運行させることとした。東横乗合は、恵比寿・田町方面を運行していたヱビス乗合自動車に、同社の姉妹会社で渋谷・中野方面で営業していた代々木乗合自動車を合併のうえ、改称したものである。東横乗合はその後、世界恐慌の影響により業績が悪化しながらも積極的に路線の拡張を進め、1932年には杉並の大宮八幡から井の頭・武蔵小金井方面の人見街道周辺に路線を有する城西自動車商会を買収した。ただし、この線は不調に終わり、のちに帝都電鉄に譲渡している。
このように2つの子会社により経営されてきた旧・東横のバスであるが、バスの交通機関としての認知度が高まり、業界の活性化が進んだことを受け、段階的に直営化が進められることとなった。1933年には、東横タクシーに譲渡していた路線と同年買収した溝ノ口乗合自動車(鶴屋商会)などの路線を東京横浜電鉄が吸収し、神奈川県内で直営バス事業を再開した。続いて1936年に、貸切バス・タクシー業のみとなっていた東横タクシー、および東京横浜電鉄の子会社で中野・練馬方面に路線を有する大正自動車の2社を東横乗合が合併し、さらに東京横浜電鉄が東横乗合を吸収したことにより、直営化による統合が完了した。
日本興業の路線継承と玉川電気軌道の合併
その後、東京横浜電鉄は、傘下にあった玉川電気鉄道を合併することとなる。その前段階として1937年、同社の子会社である日本興業のバス路線を吸収した。この路線は、「山手バス」の通称で呼ばれ、渋谷駅南口から代官山・恵比寿を経て赤十字病院(現・日赤医療センター)前に至るものであった。
そして、翌1938年に玉川電気鉄道を合併し、同社のバス事業を継承した。玉川電気鉄道のバス事業への進出は早く、1927年に軌道線に並行する渋谷
-
新町間を開通したのが始まりである。その後、1929年に淡島通り周辺に路線を持つ日東乗合自動車を合併、さらに1931年に八木哲から世田谷通り上の三軒茶屋
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調布(国領付近)間を譲り受け、翌32年には同個人より神奈川県内の路線も継承した。東京横浜電鉄による合併時の路線網は、渋谷・広尾から世田谷・調布方面、さらには神奈川県の柿生・中山・勝田周辺にまでおよぶ広大なものであった。
東横・目蒲の合併 - 大東急へ
1939年10月1日、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を合併し、同月16日、東京横浜電鉄に商号変更した。これにより、現在の東急バスにつながる路線の経営が一元化されたわけであるが、この時点では山手線内や芝浦地区のほか、中野・練馬方面にも路線を有していた。
東急から東京市への譲渡バス路線
その後、戦時下に公布された陸上交通事業調整法により、旧東京市内のバス路線に対する調整が命じられ、
1942年に一部路線を東京市に譲渡した。このとき対象となった路線は、右図の通りである。
戦時の統制下では、一方で東京横浜電鉄による周辺事業者の統合も進み、1942年には京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併、社名を東京急行電鉄に変更した。これにより、両社のバス事業を継承したほか、同日には城南乗合自動車のバス事業を吸収、その後まもなく梅屋敷・蒲田周辺で営業していた旧・京浜電鉄系の梅森蒲田自動車も吸収した。また、1944年には京王電気軌道を合併し、「大東急」と呼ばれる時代を迎えることとなる。しかし、この頃にはすでに物資不足のため、路線休止や代燃車での運行を余儀なくされる状態であった。
戦後の復旧と発展
終戦時において休止バス路線は実に7割近くにも及び、戦後数年間は依然として車両や燃料の不足が続いていた。このため、大森駅 - 池上駅間に電気自動車を導入したり、神奈川県内の一部路線の運行を横浜市に委託したりするなどの措置がとられ、復旧が急がれた。一方、路線の新設も徐々に始まり、1947年にはGHQの指導により、東京都交通局との相互乗り入れによる都心直通路線の運行が始まった。都心直通路線は、駒沢・都立高校・洗足池の自社鉄道線3駅を起点とするものに始まり、のちに小田急線や京王線の駅にも拡大した。
1948年には、小田急電鉄・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分離され、「大東急」の時代が終焉を告げた。これにより、バス事業の一部が京浜急行、京王帝都に譲渡されることとなったが、都内では両社との境界が戦前の旧・京浜電気鉄道、京王電気軌道時代とは異なるものとなった。すなわち、京浜急行とは東海道線周辺において若干の路線調整が行われたにとどまったが、経営が不安定だった京王帝都には京王線以北の中野営業所・大正営業所と管轄下の多数の路線が譲渡されることとなった。一方、旧・京王電気軌道の路線のうち、京王線以南に大きく入り込んでいた千歳烏山
- 祖師ヶ谷大蔵間は東急が継承したが、この線は1952年に小田急バスに譲渡されている。
その後、東京駅 - 横浜駅間、渋谷駅 - 江ノ島間の長距離路線が相次いで開業し、1953年には休止路線の復旧を完了した。
昭和30年代には、郊外の世田谷区、目黒区、横浜市などで路線の伸びが著しく、営業所の新設も相次いだ。昭和40年代に入ると東急田園都市線が延長され、多摩田園都市における住宅路線の整備が進められた。また、都内では都心への新たな通勤手段として、首都高速道路経由路線が開通するなど、この時期は各地でめまぐるしい発展が見られた。
しかし、昭和40年代半ばころを境に輸送量は減少に転じることとなり、特に都内では新たな鉄道の開通や渋滞の悪化によりバス離れが急速に進んだ。このため、都心直通路線をはじめとする大幅な路線整理が行われ、昭和50年代以降は都内の営業所を一部廃止して、発展の余地のある神奈川県のニュータウン側の輸送に力を傾けた。 |