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       −  東京都交通局都バスの沿革・歴史  −      
           
     

都営バス(とえいバス)は、東京都が経営する公営バス。「都バス」とも呼ばれる。
東京都交通局内にバスを担当する「自動車部」(都営地下鉄と日暮里・舎人ライナーは電車部)があり、バスの輸送人員は日本一の神奈川中央交通に次いで全国2位。
東京都区部と青梅市を主な営業エリアとする一般乗合バス事業(青梅地区では一部埼玉県内も運行)の他、渋谷・南千住に集約配置されている観光車両(6台)、乗合用車両の転用による貸切バス事業も行っている。
2002年に乗合バスの営業区域の規制がなくなり、事業者間の競争が激化した。そのため、2003年から毎年4月に、経営効率化のために一部事業所で東京都が出資する民間事業者「はとバス」への業務管理委託を行っている。また、2003年より江東・江戸川・深川の各営業所で江東区内の中学校登下校用のスクールバスの運行を受託している(年度によりうち2営業所が運行)。

1 沿革
1.1 創設期
1.2 事業の恒久化へ(大正末期 - 昭和初期)
1.3 戦前(昭和10年代)
1.4 戦争からの復興
1.5 路線・事業の拡充
1.6 路線再編・都電の廃止
1.7 バスサービスの改善
1.8 1990年代以降の動向
2 営業所
2.1 営業所の統合および廃止
3 特別路線
3.1 コミュニティバス
3.2 観光路線バス「東京→夢の下町」
3.3 臨時系統
3.3.1 東京ビッグサイト関連
3.3.2 劇場バス
3.3.3 江戸川競艇関連
3.3.4 晴海会場関連
3.3.5 その他
4 車両
4.1 低床化
4.2 低公害化
4.3 廃車車両の譲渡
4.4 局番
5 その他
5.1 音声合成装置
5.2 みんくる
5.3 運賃と乗降方式
5.4 都バスの日
6 都営バスでの2016年東京オリンピック招致活動
7 高い賃金体系



沿革
創設期
東京都によるバス事業は、1924年1月18日に東京市電気局が暫定的に乗合バス(東京市営バス)事業を開始したことに端を発する。これは、1923年9月1日に発生した関東大震災により、東京市が運営していた東京市電は大打撃を受け、復旧には相当な期日がかかることが見込まれたため、市電の代替輸送機関としてだった。最初に開通した路線は東京駅と渋谷駅(中渋谷)、巣鴨駅(巣鴨)と東京駅を結ぶ路線で、運行開始時はワンマン運転を採用し、停留所で切符を販売する形だった。また、当時の車体は明治初期の乗合馬車を連想させた。乗合馬車自体を「円太郎」と呼んでいたのに因み、この乗合馬車然とした市営バスは円太郎バスと呼ばれるようになった。
事業の恒久化へ(大正末期 - 昭和初期)
このように始まったバス事業は好調で、車庫の増設・車両の増備が図られることとなった。ただし、市電の復旧により利用者の減少が見られると、当初の目的が達成されたため許可期限だった1924年7月末に運行を終える方向性だった。しかし、市バス利用者が定着してきたこと、購入車両や設置した車庫などの投資、運転手などの従業員の処遇などの問題もあり、東京市会により運行が継続されることが決定した。これに伴い、運行時間や運転系統の見直しが図られることとなった。
このころ、既に東京市内には東京乗合自動車が経営する乗合バスが運行しており、好成績を上げ、市電の強敵となっていた。同社のバスは青色(実際は深緑色)に塗られていたため、「青バス」と呼称され、また車掌に10代後半 - 20代後半の女性を採用したが、制服の襟が白色だったことから「白襟嬢」と呼ばれ、注目を集めていた。
東京市は、これに対抗して当初ワンマン運転だった乗合バスに女性車掌を採用した。こちらは制服の襟が赤色だったことから「赤襟嬢」と呼ばれるようになる。なお、女性車掌の乗務は戦後、バスのワンマン化が進む中でも1980年代ごろまで散見された。
戦前(昭和10年代)
日中戦争が始まるにつれ、物資の統制が進むようになり、燃料を手に入れることが次第に困難な状況へとなっていった。この中で、木炭車の導入をはじめとした代燃化を進めていく。1939年には市電式木炭ガス発生炉を開発し、これをバス車両に取り付けていくことが進められた。また、陸上交通事業者が乱立していることが戦時体制下では非効率であると判断され、どのような形態にしていくのかが国により議論されていくこととなった。1938年には陸上交通事業調整法(陸調法)が施行され、この法律に基づく委員会により民間と東京市の対立があったものの、東京市内と周辺地域について以下のような調整案がまとまることとなった。
旧市内は、路面交通事業者は東京市、地下鉄は新設する特殊機関(のちの帝都高速度交通営団、現在の東京地下鉄)に統合。
旧市内以外は4ブロックに分けて統合。ただし、地域相互の連絡、規格統一を行う。
国鉄は除外。
この案をもとに、東京市は旧市内のバス事業者の統合を図った結果、1942年2月1日までに、東京市は市営バスのライバルだった「青バス」こと東京地下鉄道のバス部門、東京高速鉄道傘下の「黄バス」こと東京環状乗合自動車、城東乗合自動車、王子電気軌道の全路線、そして京王電気軌道と東京横浜電鉄のバス部門と東京地下鉄道系列だった葛飾乗合自動車のそれぞれの旧市内路線、大東京遊覧自動車を、政府による裁定指令などもあった上で買収を完了した。これで、東京市は天王洲 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 池袋駅 - 赤羽駅 - 荒川大橋 - 千住新橋 - 小松川橋 - 今井橋に囲まれた東京中心部の乗合バス事業を独占することとなった。
1942年に電力統制が敷かれたため電気事業が分離され、1943年10月1日には東京都制が施行され、東京市電気局は東京都交通局に名称を変えることとなった。
戦時中は、工場への輸送などの需要をさばく必要が生じていたことと、物資の不足や空襲などによる施設、車両への被害なども相まって、運行する路線も限られたものへと縮小することとなった。
戦争からの復興
第二次世界大戦後は、わずか12系統が運行されるだけとなり、浜松町・渋谷・新宿・大塚・千住・大島・堀之内・江東の8営業所と4つの分車庫が存在するのみだった。車両も木炭車を中心とした代燃車両が用いられていたが、満足に走ることのできる車両は多くなかった。このような中で、米軍から余剰のトラックやトレーラーが日本国内のバス事業者に払い下げられた。東京都交通局には約400台が割り当てられ、復興に大きく貢献する。
路線・事業の拡充
このような戦災復興中の1947年には、現在ではほとんど運行されなくなった民営バス会社との相互直通乗り入れが始まる。これは陸調法の関係や営業権の問題も絡み、なかなか進まなかったが、GHQによる勧奨もあり、推進されることとなった。1948年には、休止中だった遊覧バス事業を新日本観光(現・はとバス)へ譲渡した。しかし、バスによる観光客の増加が見込まれたため、1953年に新たに免許を申請することとなり、1954年には観光バス事業を再開した。

路線再編・都電の廃止
1952年、地方公営企業法の適用を受ける。この後は乗客の増加などもあり経営的には順調だったが、1961年度以降は赤字基調となり、度重なる運賃の値上げによっても解消することは出来なかった。その中で、経営改善を行うために路線の再編やワンマンバス化などが行われることとなった。
さらに、モータリゼーションの進行とともに、都内でも郊外からの交通需要の増加などにより、慢性的な渋滞が都心部で発生するようになった。この影響もあいまって都電は現在の荒川線を残し、1963年から1972年にかけて次々に廃止され、トロリーバスも廃止された。これらの多くは代替輸送路線として都営バス路線が設定され、37系統が設定された。この都電代替路線の多くは、現行の都営バスの基幹となっている。
都電廃止に伴い設定されたおもな系統
都電系統 廃止時運行区間 代替バス系統番号 代替バス運行区間 現在の系統番号 現在の運行区間
電6 渋谷駅 - 六本木 - 新橋 506(初期は504) 渋谷駅 - 六本木 - 新橋駅 都01 渋谷駅 - 六本木駅 - 新橋駅
電16 大塚駅 - 錦糸町駅 516 大塚駅 - 錦糸町駅 都02 大塚駅 - 錦糸町駅
電20 江戸川橋 - 須田町 520 早稲田 - 須田町 上58 早稲田 - 上野松坂屋
電22 南千住 - 日本橋 522 南千住 - 東京駅八重洲口 東42甲 南千住車庫 - 東京駅八重洲口
電23 福神橋 - 月島 門33 豊海水産埠頭 - 亀戸駅 門33 豊海水産埠頭 - 亀戸駅
電28 錦糸町駅 - 日本橋 東22 錦糸町駅 - 東京駅北口 東22 錦糸町駅 - 東京駅北口
電34 渋谷駅 - 金杉橋 534 渋谷駅 - 赤羽橋 - 新橋駅 都06 渋谷駅 - 赤羽橋駅 - 新橋駅
電38 錦糸堀 - 門前仲町 錦14 錦糸町駅 - 門前仲町 都07 錦糸町駅 - 境川 - 門前仲町
また、前述のように東京都交通局の財政状況は芳しくなく、第二次再建計画(昭和50年代前半)、第三次再建計画(昭和50年代後半)が提示されることとなり、バス事業においても不採算路線の廃止・短縮などの再編が行われることとなった。同時に、都営新宿線などの新線開業に伴う再編も行われた。
第三次再建計画に伴うバス路線の状況の一例(1982年7月に行われた大規模改変)
系統番号 廃止時運行区間 備考
門19乙 門前仲町 - 豊洲鉄鋼埠頭 廃止
東26 東京駅八重洲口 - 葛西車庫 廃止
東42乙 南千住 - 岩本町 廃止
里48乙 日暮里駅 - 根津一丁目・日本医大病院 - 文京区役所 廃止
中77 中野区役所 - 新代田駅 廃止(関東バスと相互運行)
橋78 新橋駅 - 新宿車庫 - 下高井戸 廃止
東96 東京駅 - 高輪 - 五反田駅 廃止
一方、青梅地区でのバス事業は1949年に始まった。当時、青梅地区は西東京バスと西武バスで運行が行われており、成木地区への路線が開設された以外は、この二者による独占体制だった。しかし、青梅市の山間部で人口減少が進み、1975年には一部を除き西武バスが撤退することとなった。このため、東京都交通局が引き継ぐこととなり、青梅地区の路線は一部を除きほぼ現在の形へとなった。




バスサービスの改善
一方で、バス事業のサービスの改善も行われることとなり、1979年には深川・練馬・葛西・早稲田の4営業所において冷暖房車の運用を開始した。全営業所で冷暖房車が投入されるようになるのは1980年で、当初は1営業所につき2台、全車が冷暖房車となるのはさらに時代の下った1990年だった。1981年には行先方向幕を大型化した冷暖房車が210台投入され、都電廃止時に大量投入された1968年 - 1969年に投入された車両が置き換えられた。なお、これら投入された冷暖房車はイエローベースに赤ラインの「スズキカラー」となっていたが、利用者や都民からの評判は悪く、4つの車体塗色の変更案を出し、結果1982年にアイボリーをベースに緑色のラインを入れた「ナックルライン」と呼ばれる新塗色へ変更することとなった。319台が投入され、1983年までに初期車を置き換えた。
上記のようにサービスの改善は行われていたものの、再建計画や路線再編が何度も存在したことから分かる通り、バス乗客数はモータリゼーションに伴う道路渋滞の悪化、定時制の喪失など様々な要因が重なり、利用客が減少していった。これらを改善する方策の一つとして1984年に都市新バスの運行を旧・橋89(渋谷駅 - 新橋駅)で開始することとなった(愛称は「グリーンシャトル」、系統番号は都01)。この路線は成功を収め、都市新バス化の前後で利用客の増加やバスに対する信頼性を回復した。この都市新バスはその後も設定が行われ、2010年現在では都営バスとして8系統(都01 - 08)が設定されている。また、2000年からは増収対策の一環として車体に広告を貼り付けるラッピングバスが登場した。

1990年代以降の動向
このような様々な方策により利用客の減少をつなぎとめようと試みてきた。しかし、大幅な路線の廃止を伴う路線再編が地下鉄の延伸の機会に多く行われて来た。半蔵門線・南北線の延長や都営大江戸線・りんかい線の全線開業、日暮里・舎人ライナーの開業に伴うものが代表的な例である。
これにより多くの路線が廃止・減便されるとともに、地下鉄とバス並行の区間などで利用客が落ち込むこととなり、バス事業の利用者は減少を続けることとなった。それに対抗するため、都営バスでは「アクセスラインバス」「ダイレクトバス」「ラピッドバス」「フレキシブルバス」といった新しいタイプのバス路線を運行することになった。
都営大江戸線開業に伴う路線再編の一例
系統番号 運行区間 実施措置
黒10 目黒駅 - 東京駅南口 廃止
東17 東京駅八重洲口 - 潮見駅 廃止
水59 一ツ橋 - 巣鴨駅 廃止
田70 港区スポーツセンター - 新宿駅西口 廃止
秋76 秋葉原駅東口 - 新宿車庫 廃止
四80 四谷駅 - 赤坂アークヒルズ 廃止
茶81 渋谷駅 - 順天堂病院 廃止

 

     
             
             
     

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